コミュ障は悪くない
コミュ障と聞いてどう感じますか?
自分だと思う人もいれば、嫌い、甘えみたいなマイナスイメージもあると思います。
はたしてコミュ障は悪でしょうか?
私は悪とは言えないと思うんですよね。
根底にあるのは、誰とでも繋がりたくはないという本能的な否定ではないでしょうか?
繋がる人を選びたいとも言えます。
その感覚はおそらく、本人の資質にとって必要だからそうなっているものかもしれないと思うからです。
自分を開いて、誰でもウェルカムの出入り自由。
世の中の常識的に、
そのような陽的で広くどんな人とでも交流できる人が立派なイメージがありますよね。
しかし、本質がそうではないのに無理をして
表面的にむりやりオープンな状態にしてしまうと、
この世界で生きていくのが辛くなってしまう人がいるかもしれません。
たとえば、受け身が多い人。受け取る事が過剰になっている人。
受容が得意な人とも言えます。
短所ではありませんからね。
長所にもなりえます。
自分を外に打ち出したり、主張したり攻撃や排出が弱い人。
ある特定の環境や関係性にのみしかそれらが発揮できない場合もあると思います。
感覚的な話になりますが、
攻撃が弱いということは侵入されやすかったり
主導権を奪われやすい人とも言えます。
共感能力が高く自他の境が曖昧で、無意識に気持ちが混ざり合ってしまう人。
命式的にそのような星の配置をもって生まれている場合もあれば、
本来の星を使えていなくてそうなっている場合もあるかもしれません。
そのような人は一緒にいる人によっていろいろな形で振り回されることになります。
結果一人で存在している方が、よっぽど心をやすらかに保てる場合があると思います。
コミュ障と聞くと蔑みの対象のような、
見下されても仕方のない性質かのように言われていますよね。
しかも人に対して侮辱するために使う言葉というよりも
自分が自分に対して自虐的に使われるイメージがあります。
それって、損だよなあと思ったわけです。
わざわざそんなことを思う必要がないんじゃないかと思うんですよ。
世の中に合わせられないことを悪だと思う必要なんてないわけです。
人との違いこそが個性ですから。
私はホロスコープを読むときに、
どんな配置であってもそれがその人にとって必要な事であり、
宇宙というか神様からの愛であるならばという視点を忘れない様にしています。
最上の人相である赤子をあやす母親の眼差しや、
自分を慕ってくれているペットの頭をなでている時のような眼差しで
自分自身の性質を見て欲しいと思います。
自分の性質を肯定できた時に初めて、じゃあどうする?という段階に進めるからです。