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登山家栗城史多氏に見るやぎ座の月

 

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登山家栗城史多さんについて

先日、わたしはyoutubeで登山家の栗城史多さんのゆっくり解説を見ていました。彼は2012年のエベレストの西稜という難ルートへの挑戦により、手の指を9本失いながらも挑戦を続けましたが、残念ながら一度も登頂することなく、2018年の5月に8度目の挑戦の際に命を落としてしまいました。当時は結構ニュースになり、今でも人々に語り継がれるほど印象的で注目したくなる人だったと思います。そんな彼のホロスコープがこちら。

 

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太陽水星がふたご座。さらに、火星も土星冥王星もてんびん座で風星座が強いです。彼は【 冒険(夢)の共有 】をテーマに、登山の様子を生配信したりしていたので納得ですね。いて座の天王星は世代的なものですが、既存の価値観にはなかった新たな変革を起こしたいというような願望もふたご座の水星に影響を与えていたようです。

 

 

 

栗城さんを山に駆り立てたやぎ座の月

そして注目すべきは、やぎ座の月です。栗城さんを山に駆り立てた衝動はこのやぎ座の月だったと思うのです。何度も言うように月は自分の能力ではないですから。でもそうしなければならないような、脅迫的な衝動に駆られてしまう。頑張って証明しようとするんです。やぎ座の月ですから、より困難な状況で、自らにルールや制限を課すという負荷をかけて、大衆に証明しようとしてしまったのでしょう。

 

シーズン的に難しいとされる秋に、バリエーションルートで、単独無酸素。客観的にみると無謀な挑戦ですよね。ましてや7歳の能力しかないやぎ座の月には背負いきれないですし。これがやぎ座の太陽であれば、もっと現実的な道を選択したはずです。まずはサポートを受けて一般ルートから登頂し、徐々に難しいバリエーションルートや制限を課しながらトレーニングを積み、高みを目指していく攻略法だってあったはずです。現実的に考えればなんども無謀な挑戦をし続けるよりもずっと確実です。ではなぜ無謀な挑戦をしつづけたか。

 

おそらく栗城さんはルナティックと呼ばれる状態に陥ってしまっていたのかもしれません。あまりに月に固執したことで、狂気に陥ってしまっていたということです。

それは野口健さんの語る生前のエベレストに挑戦する栗城さんの様子(10:17~)からも見てとれます。

 

だんだんね、追い詰められていっているような。最初はすごくね、楽しそうにやっていましたけど。エベレスト何回も何回も行くんですけど、失敗して失敗して。段々あるときからね、苦しそうに僕らには感じたのね。で、途中からね段々エスカレートしていくっていうか。最初はノーマル。一般ルートっていうか、挑戦するんですけど。途中からね、北壁に行ってみたり、南西壁にいってみたり。ノーマルルートではなく岩壁から登っていくっていうね。何故かそっちにシフトしていくんですよね。

 

  
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そうするとね、単独、無酸素だけでも相当難しいのに、そこにバリエーションルートっていう、さらに難しテーマを加えていくわけですよ。客観的に見てるとね、うーん、、実現できるのか。非現実的に入ってきたなと僕は思ったんですよね。

 

野口健さんは栗城さんの様子を動画内でこのように語っていました。やはり、なにかおかしいなという印象を感じ取っていたのでしょう。

 

 

月を使うと人気は出る

一方で、”月を使うと人気は出る”とマドモアゼル愛先生も仰っていました。ただ、人気と、ほんとうにその人のことを支持し、心からその人の事を考えているという事は違いますからね。大衆の人気はもっと無責任な実体のない幻想であると感じます。野口さんも動画内でこのように語っています。(13:32~)

 

僕ね、ネットを見ててね、栗城さんのファンの人たちは。まあ純粋にファンが多いわけですね。で皆さんは、書き込むわけです。隊長ならやれる!栗城さんならできる!応援のメッセージが一杯届くわけです。応援するって言うのはいい事なんですよ。うーん、、でも、それって本当に応援なのかっていうことなんですよ。キャンプ3から7000メートルの半ばから無酸素でね、雪の多い秋でね、山頂に単独無酸素でね、行けるのかな。行けるわけがないっていうか。仮に行った場合帰ってこれるのか。そうとうリスクがあるわけですよね。となった時に、隊長ならやれる!応援してる!とか。そういう風に書き込むとね、本人それ見ますから。なんとかと思いますよね。でも、本当はそれは正しい形での応援ではない、と僕は思ったんですよね。

 

 

 

 

サビアンシンボル考察

①【やぎ座6度:暗いアーチのある小道と底に敷かれた10本の丸太】

出生時間が分からないのですが、太陽一室だとすると月はやぎ座の15度になっています。サビアンシンボルから推測して、まずは【やぎ座の6度】に注目してみることにします。

 

仕事をしたり共同体との関係を作り出すうえで、自分自身をその環境の犠牲にすることで地位や力を得ることになります。人柱になる傾向があるのですが、本人にやる気がでると関わる環境全体に勢いが出てきます。この度数を持つ人は社会や組織の結束を作り出すために自分が犠牲になる人ですが、それはもちろん死ぬという意味ではありません。非常に大きな労力を払って自分自身が人柱になることで結束がまとまるという結果になりやすいでしょう。(愛蔵版サビア占星術 著 松村潔)

 

集団の為に個が犠牲になることによって集団をまとめ上げ、地位や力を得る。集団を動かすため、共同体に骨をうずめる。まずは自分が犠牲を払う事で、人々の心をつかみ、人にも同じように要求し、集団をまとめ上げる。しかし月に当てはめると、そのような願望はあっても力はないとなります。そうしなければならないという強迫感によって実行しても、期待した現実は得られないと読めます。【 冒険(夢)の共有 】をテーマに登山をしていた栗城さんにとって、自らの姿を配信し見せる事で、集団に対して大きな影響力を与えなければならないとの強迫感を抱えていたのかもしれません。

 

②【やぎ座19度:大きな買い物袋を下げた5歳程度の子供】

もう一つは【やぎ座の19度】に注目してみることにします。

この度数の人は純粋な動機で役に立つ行動をするために、どんな無理なことにでも努力を惜しみません。野放図に遊びたい気持ちを自制して、目的のあることに集中する努力は本当の意味での大人意識を育成するには非常に重要なのです。(愛蔵版サビア占星術 著 松村潔)

 

ここで言う5歳の子供は大人の中にある精神的な子供の心であり、大きな買い物袋は5歳の子どもには大きすぎる重荷を表します。無理な負担にチャレンジすることで、苦しくても内面的に成長、成熟しようという気概が感じられます。そして鏡関係である180度真向いのかに座の要素である水の情緒面を成熟させようとする意図があります。

 

繰り返しますが月であれば、そうでなければならないという思いこみ、そして最終的には焦燥感や強迫感を持ちます。月は陥りやすい罠であり達成することのない領域を表しますから、残念ながら無理な負担を自らに課しても、実際には期待したような成果を得られず、内面的にも成熟をすることなく終えてしまったとも読めます。

 

 

 

まとめ

本人にしか分からないのですが、本心では苦しかった、そうせざるを得なかったのであればそれは月だったということ。判断基準はそこに喜びがあったのかどうか。その一点に尽きると思います。最後のエベレストに向かう直前の栗城さんに会った時のことを野口さんはこのように語っています。(18:48~)

 

彼が遭難する直前に、何か僕もね、あの時感じることありましてね。で僕もヒマラヤにいたので。栗城さんが冒険、エベレストに入るっていうんで、会いに行きましてね。はじめてベースキャンプまで会いに行きましたね。自分の山登りをいったん中断して。会いに行きましてね。やっぱり感じるものがあったんですね。でそこで氷河で再開しましたけど、なんか小さく見えましてね。これからエベレストに挑むんだっていう男が発するオーラではなかったですね。……非常にテンションが低いというかね、なにかこれから挑むぞという男の発するオーラじゃなかった。

 

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例に挙げた2つのサビアンシンボルも太陽であれば、そこに喜びが在るはずです。他人からはどんなに困難に見えて理解されなくとも、本人にしか分からない喜びや充足感が満ち満ちていることになります。

 

栗城さんの場合、エベレストに挑むことが、彼にとって喜びではなかったと思えてなりません。少なくとも直前に彼を見た野口健さんには彼がとても喜びの渦中にいるとは思えなかったのではないでしょうか。

 

最後に、栗城さんを題材にした「デス・ゾーン」の著者河野啓氏のインタビューから。

今になって言うのは遅いでしょうが、そんな栗城さんが見せる弱さを追いながら、ドキュメンタリーとして、彼が指をなくして、気力体力が衰える中で、本当に麻薬のような承認欲求に駆られてエベレストに挑み続ける姿っていうのを描きたかったですね。そういう元気をなくした時の彼にこそ、学ぶべき何らかの教訓があったような気がして。こんなことを言うのは故人に対して良くないかもしれませんが。

 

読者の皆さんにも、きっとご自身の中にある「栗城史多的な部分」が見出せるはずです。「あっ、俺の中にもいるなあ、栗城」っていう。人間的なずるさとか、あるいは弱さとか、これは俺にも共通しているな、という要素がどこか見つかるんじゃないかと思いますね。

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